鍵のない図書館

好きな食べ物はバナナのパウンドケーキ

或る花の名前

花は良いなと、より思うようになった。

足音のしない店内に、花の命を感じた。

深い眠りから私を覚ましたのは、誰かが差し伸べた、温かな手だった。

 

眠りの底に着いたとき、お日様の香りがした。

「もうすぐ花が咲くね。」という、誰かの言葉が聞こえる。

私はそれを待っていたのだと思う。

 

窓に付いた水滴を一粒、それと優しい気持ち。

横目には、涙目で外を見つめる、白い顔。

あの青く澄み切った空から聴こえる、知らない歌。

 

いつ枯れるかも分からない、花束を抱えたまま

重力から解き放たれて、ここから旅立とうとする人へ送る

一輪の花。

 

 

 

熱帯夜を拐う。

夜更けにも関わらず、誰かが音楽会を開こうとしている、そんな気がした。

そよ風に乗せられて、運ばれて来た夜の香りは、寝室を客席へと一変させる。

寝苦しいとは思わなかった、ただ昔からある扇風機の音だけが、僕の耳へ届いた。

 

まるで夏祭りの後、そこで流した土と埃を含む汗を、ラムネですぅと流すような

飲み続けるに連れて、コップの底に溶けきれずに残っていた、蜂蜜の香りのような

そんな夏の夜に、家族で川の字で寝ている僕達、これは優しい気持ちになれる。

 

僕達の世界には様々な香りが溢れている、夏が訪れると、僕はいつも思い出す。

記憶にこびり付いている、一つしかない、僕だけの香り。

僕達が認知しきれない「何か」が、ぎゅっと詰まった一瞬に、宇宙を見付けた気がする。

 

両手を大きく広げて、身体中で、その不思議の正体と焦点を合わせようとしていた。

宙をじっと見つめて、五感を研ぎ澄ますと、僕の心音が聞こえた。

まるで僕を迎え入れるかのように、夜の香りが強くなった、辺りは真夜中を迎えようとしていた、

 

口の中で林檎飴が溶けているような、金魚すくいですくわれたのが僕のような、そんな感覚。

乱れのない寝息を聞いた時、今、僕以外の人間は全て眠っているのではないかと思う。

手の平に何かがある気がする、それは誰も知らない扉を開けるために必要な鍵、それはたった一つの本物を知るために必要な物。

 

指の先から身体の芯を通って足の先まで、夜の香りに満たされた時、長く時間を掛けて咲いた花のようだった。

僕の心の奥の方、心臓を通りすぎて心音が聞こえなくなる所から、香りを発する所がある。

まるでそれは人々を引き寄せ、そこで魅了し、酔わせてしまう甘い香り。

 

それが大人の香りなのか、僕はまだ知らない、僕もまたそこに引き寄せられてしまったに過ぎない。

眼を開くのが怖かったのだろうか、ゆっくりと瞼を開けると、静けさが僕の口を塞いでいる。

長い数秒だったのだと思う、これが夢なのか、あれが夢なのか、夢の中の夢なのか。

 

窓からはそよ風に乗せられて、熱帯夜を拐う、甘く涼しい風の香りが吹き込んでいた。

 

 

小窓から。

 

新居とも見て取れない、だけど懐かしい香りを感じる一軒家。

空が赤トンボと同じ色に染まってきた時、僕は小さな小窓から中を伺う。

陽に照らされた室内には僕の影が一つと、地平線に沈む陽が一つ。

 

僕は今でもこの景色を思い出して、この景色を見つめている。

僕の瞳が捉えたこれは、果たして幻なのか、果たして宇宙なのか、果たして愛なのか。

似たような住宅街に佇む、だけど誰も見たことがないであろうこの家。

 

小窓の向こう側、室内に足を踏み入れた時、大発見を見付ける気がしている。

今と、過去と、空間が交差して誰も見たことがない宇宙になる。

銀河系は僕の手の平で円を描き、命の始まりと終わりが一つになる。

 

誰かが想いを込めて作った写真立てを見て、烏が鳴く声が聞こえる。

大海原に散って行った魚たちは、いつかまた、此処に帰る日が来るだろう。

此処は陽が当たらない高架線の下にある、ぼんやりとした灯火のようなもの。

 

たった一つ、誰にも負けず、強く残り続けた何か。

 

 

つれづれなるままに。

 

あの暗がりに或る扉の向こう側、そこには何が或るのだろうか。

月の裏側か、空の裏側か、心の裏側か。

「夜」はまだ覚めぬ、覚醒した世界へと繋がっていると思う。

 

海面に揺れる朧月と、月を目指す竜の鱗。

その甘い海の中を、儚げに溺れていく少女。

深い海底の底に眠る、かつて栄えた人類の痕跡を見た。

 

起こしてはならない人、そっと手を握る。

硝子の様に砕け散る、その少女の心は、誰にも気付かれることはなく。

暗く冷たい海の底で、長い時の中、かつて私だった者の手を握る。

 

電車の汽笛、自動車の急ブレーキ、青に変わらない信号機。

少しずつ、そして確実に壊れて行く音を、夜は許容する。

遠い所に、手を握っていた頃に、思いを馳せる。

 

まだ、空を美しいと思っている。

灯台は夜の海を、鈍く照らしている。

そこにいる誰かが、名も知らない誰かが、私を待っている。

 

まともな言葉では表現不可能な私の色、人として形を保つことができている。

始まりの一歩にはいつも、影ができていた。

これが私の望んだ世界だと頷けた時、モーセの様に海を割ることができる。

 

 

反対の人間

 見覚えのある背中を追うようにして、慌てて煙草を消し、店内へ入る。

商品棚の間から顔を覗かせるも、それらしい姿はどこにも見当たらない。

諦めて缶麦酒をレジへ持って行こうとしたその時、その背中は店内を出る所だった。

 

「待て」と車に乗る所へ、声を掛ける。

 

僕は煙草を吸っていた、見覚えのある背中が店内へ入るのを見て、慌てて後を追う。

店内へ入ると深夜だからか、奥の方から遅れて挨拶が聞こえる。

姿が見当たらないので諦めようとしたその時、その背中は店内を出る所だった。

 

店員の挨拶が、遅れて聞こえる。

 

駐車場へ車を停止させた所だった、車内に効かせている冷房が一段と強くなる。

晩ご飯を買い早く寝ようと思い、顔を上げたその時、喫煙所にその背中がある。

見覚えのある背中がこちらへ背を向けて、煙草をふかしている。

 

火種を焦ったように消す音だけが、嫌に聞こえた。

 

じめついた汗を額に感じながら店内へ入る、店員の挨拶が遅れて聞こえる。

やはり店内には誰もいない、浅く深呼吸をして心を落ち着かせる。

缶麦酒をレジへ持って行くも、中々店員が出てこない、何故か鼓動が早くなる。

 

「すいません.....。」弱々しく数回、呼びかける。

出て来たのはこちらに背を向けたまま歩いてくる、その背中だった。

僕の体中が危険を察知し、駆け出そうとするも、足が震えていた。

 

背を向けたままレジを打つ、その顔は決してこちらを向かない。

喉の詰まりを必死に堪え、震える手で会計を済ませる。

足早に出ようとしたその時、背後からなにか言葉が聞こえた気がした。

 

体を動かそうとするも動かない、そしてこの世の者ではない、異常な気配を感じる。

少しずつ、背後から近付いて来るその声の主、聞き取れない言葉を発している。

店内の底を静けさが埋め尽くし、僕の足下に黒い影が伸びて来た時。

 

「こんばんわ。」

 

確かに、はっきりとそう聞こえた。

 

「.....お客さん?」その言葉で僕は覚める、店員がいぶかしそうにこちらを見ている。

缶麦酒と簡単な夜食を買う所だった、店内は明るく、どこかの局の放送が流れている。

「大丈夫ですか?」青ざめた顔の僕を見て、心配そうに聞く若い女性の店員。

 

「大丈夫です。」

 

そそくさと会計を済ませ、後ろに並んでいた人へ小さく謝罪をする。

店を出た後に振り向くと、店員が次の客の会計をしている所だった。

車に乗り込むと、僕は自分が落ち着いてくのが分かった。

 

少し遠回りにはなるが、わざと大通りを走らせる。

目に入る灯火が、僕の影を照らして行く。

一体なにを見ていたのか、或いは見せられていたのか。

 

ナビに表示される時刻を確認すると、既に0時を大きく過ぎていた。

暫く車を走らせた後に、僕はようやく帰路に付いた。

駐車場に車を停め、車内の冷房を切る、既に夜風が冷たく感じる。

 

駐車場を照らす街灯が点滅している、そこに円を描くように蛾が集まっている。

嫌な気分を思い出しながら、築数十年は経つであろうアパートの階段を登る。

隣人はみな眠ったのだろうか、窓から零れる明かりはない。

 

階段を登り切ると、僕の部屋の前に誰かが立っている。

 

見覚えのある背中が、微動だにせず立っていた。

 

誰かが階段から登って来る、月明かりに照らされたその顔は、青白い顔をしていた。

 

 

 

終わり。 

指揮者がいないオーケストラ

季節外れの暑さに、春は砂糖菓子のように溶けていく。

もし言葉に手足が生えていたら、重力に逆らって、心まで届くだろう。

春の終わりか、夏の始まりか、知らせるように鳴くカエルの合唱が届く。

 

景色を、光の線のような残像で捉える。

果てしない道を見るように、ただ見ていた。

汚いことばかり教えられて、美しいことは見付けなきゃいけない。

 

家出をする少女が持つような、ビー玉のような儚さと、強さ。

大人に対して抱いていたあの感情を、忘れていることに気が付く。

どこでどのように変わっていったのか分からないまま、ブラックホールに吸い込まれる。

 

地球を横目に見ながら、ここではない月に飛んで行きたいと思う。

忘れ物を取りに帰った時、偶然見付けた宝箱。

埃を被った箱を開ける時、大人になっていたことに気が付く少女。

 

記憶を覗かれるような、夕暮れの香り。

忘れ去られた物たちは、今と未来を見て、呼吸を始める。

事柄の中に隠された優しさを鮮明に感じた時、息が詰まる。

 

時空を越えてきた思い、仕舞い込んだ熱量が、私の胸に届く。

誰かが付けていたキーホルダー、差出人不明の手紙と。

見付けた枯れない花、見ていた小さな星、すべては一つの所に繋がる。

 

ウルトラマンの人形を手に取って、私は怪獣を倒しに行く。

私には活動限界があり、怪獣はだいたい強い。

美しいことを守るために、私はまた、星へ還る。

 

誰もいないコンサートホールで、指揮者がいらないカエルの合唱を聴きながら。

これが完成すると、美しくならないのだなと思う。

 

銀河鉄道が走る夜に、なにかを待つ。

a.

沈んで来た所が丁度、海の底だった。

誰かを呼ぶように泣く子供の泣き声が、まず耳に届く。

次に、足元で秒針を刻む、昔からある時計が目に付いた。

 

静寂が仁王立ちをし、暗雲の向こうから泣き声は聞こえる。

まるで四方を壁に囲まれているように、息苦しい。

よく目を凝らすと、目の前に色を失った本棚がある。

 

誰かを待ちくたびれて、そのまま時が流れて行ったような本棚。

そこから一冊、文庫本を手に取ってみる。

暗く、題名が読みづらかったが、そこには「a」と書かれていた。

 

トイ・ストーリーに出てくるバズ・ライトイヤーは、「無限の彼方へ、さぁ行くぞ」と言い残して、飛び立った。

なにも「無限」を目指そうとは思っていない、けれど淡く光る蛍のようなものを追いかけて、走り出す。

  

天使が降りてきたのか、または翼の生えた人なのか。

求めれば存在するのか、求めなければ存在しないのか。

まどろむほど甘く、息を飲むほど喉が渇く、紅い林檎。

 

ぼんやりとかつて無限の彼方へ旅立った、少女を思い出す。

別れの時、僕の目を見ていたことを思い出す。

彼女の口から言葉が出ることはない、釣り糸はまだ、伸びている。

 

餌を咥えた魚のように、糸を引きちぎってしまいそうな勢いで。

その時、僕は始めて、確かに気付く。

自分にとって、大切なものだと。

 

或いは、僕が魚なのかも知れない。

 

そして僕の心の海から、また違う海へと渡り歩く。

 

誰も知らない扉の開け方。

缶珈琲を飲み終わった後、煙草を吸い終わった後、美しいことを見た後

瞳の奥に小さな灯火を携えて、一歩を踏み出す時

その一瞬だけ、自分を好きになれる。

 

○か✕か、分からないまま歩み進めてきた今

私の目の前にはようやく、大きな観測所が現れた

未来と過去から来る電波を受信して、なんとなく、ただそれだけで。

 

幾度も書き加えてきた世界地図に、あてもなく書き加える

これは別に宝の地図でもなければ、未来予想図でもない

小さな鏡を取り出して、自分の顔を見るような物。

 

天国か地獄か、そんなことはどうでも良くて

ただ楽園があるのであれば、私の手を引いて連れて行って欲しい

そこで私は何も考えず、ひたすらに透き通るような女の子になるだけ。

 

創造力を働かせれば、あらゆる夢が叶う場所で

この世以外のことが書かれている本を読みながら、ある電車を待つ

禁断の飲み物が売られている自動販売機と、駅のホームで。

 

淡く視界が揺れる、対面のホームには鮮やかな一人の私

隣に腰を掛けて楽しそうに話しをする、彼女の姿

空を見上げると、私を呼ぶ声が聞こえる。

 

リズミカルに手を叩きながら、電車を待つ、彼女達とは違う電車を

飛べない私をあの場所へ誘う歌と、鼓動の音

そして電車が来る時、手にした切符をに握り締めて、乗車する。

 

私が沢山乗った、私の中に私は揺られる。

私個人が消えてなくなる時、後に残るのは風の中に残る、私の香り。

 

時にはそよ風に、時には嵐に、時には無風に。

 

そうして風になれば、彼女達の元へ香りを届ける

まるでピアノの音のような、綺麗で明確な香り

それを感じた時に、私達の世界も同じように鮮やかになる。

 

なんだろう?なんて、彼女達は首をかしげる

私はくすりと笑って、通り過ぎるだけ

そういう明確ではないけれども、ほのかに感じる存在。

 

ほら、見渡せば変わらないものばかり

変わって行くのは、変化して行くのは私達だけ 

後のことは空は空としてあり、海は波を打ち、花は花として咲く。

 

空虚な空間で息をして、誰も知らない扉の開け方を探る

古びた鍵穴に目を凝らせば、見えてくるものは、ある一人の男の背中

柱の陰に隠れていた子供が持っていた鍵、何かを託された私の手の中。

 

鍵を開ける時、異界の音が聴こえた時、男が振り向いた時

私は私の器に戻される、まだ早い。そんな言葉を耳にして

意識が引きずり戻される、またおいで。といっていたあの男

 

一瞬に見えたのは、波打ち際に流れ着いた私の姿

そこに近付く彼女の姿、彼女は私の体を抱きかかえて

うつむき加減に砂浜を見ながら、観測所へと歩いて行く......。

履き慣れていない靴で、走る音。

私は今、耳を澄まして聞こえることを、空を見上げて思うことを。

内側から迫り上がる声を、外側へ響かせている。

なにもないな、なんて、顔色を伺うように空を見て。

 

私の中に否応なく侵入してくる物事に、定義と意味をつけて。

いるものと、いらないものに分ける作業が鬱陶しい。

これを放っておくと、よくない。

 

溜め息を吐くと、目に見えて足下へ転がる。

言葉の繋がりを見るように、自分の繋ぎ目を見て、ほつれている糸。

汚くて、汚れていることばかりが、へばり付くように影を成す。

 

窓際を覗くと、季節は新緑になっていた。

カーテンが靡くのを、目の端で捉えている。

小川のせせらぎと、小鳥のさえずりを耳にしながら、今日の晩御飯のことを考える。

 

心の波がすぅと溶けて行く、履き慣れていない靴で走る音。

私に向かって来る数多の足音が、ただ通り過ぎて行くのを見ていた夕暮れ。

飛行機が飛ぶのを見て、意識が雲に乗る、重力から解放されて青へ羽ばたける

 

そこで腕組みをして思案する、そしてもう一人の私がいることに気付く。

砂時計の砂が音を立てず、静かに静寂の山に落ちて行くように。

必ず落ち切る砂を見て、どこか切ない気になれば、心に色が付く。

 

虚空を見つめて、私の横顔を覗く私が、すぐ隣にいる。

どうでもいいことが頭の中を掻き回す、白と黒とは言い切れない色を。

万物の物が、或いは偽物と本物のフリをしていることに、具合が悪くなる。

 

嗚呼、大人になってから、さよならをする。